日本史初登場

私が住んでいる秋田。

画像
「あきた」が歴史の表舞台にはじめて登場し、
記載されたのは、
現存する歴史書では養老四年(720)に成立した
日本最古の勅撰歴史書といわれる『日本書紀』の
斎明天皇四年(658)四月の条といわれています。

そこには

夏四月(なつうづき)に、阿陪臣(あへのおみ)、名をもらせり。
船師一百八十艘(ふないくさももあまりやそふね)を率て、蝦夷(えみし)を打つ。
齶田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡(ふたつのこおり)の蝦夷・
望(おせ)り怖(お)ぢて降(したが)はむと乞ふ。
是(ここ)に、軍(いくさ)を勒(ととの)へて、
船を齶田浦(あぎたのうら)に陳(つら)ぬ。
齶田の蝦夷 恩荷(おんが・おが)、進みて誓ひて曰(もう)さく、
「官軍(みいく)の為の故に弓矢を持たらず。
但し、奴等(やつこら)、性(ひととなり)肉(しし)を食(くら)ふが故に持たり。
若し官軍の為にとして、弓矢を儲(ま)けたらば、
齶田浦の神知りなむ。
清き白(あきらか)なる心を将(も)ちて、
朝(みかど)に仕官(つかえまつ)らむ」

とまうす。
仍(よ)りて恩荷に授(さず)くるに、
小乙上を以ってして、
渟代・津軽、二郡の郡領(こおりのみやつこ)に定む。
遂に有間浜(ありまのはま)に、
渡島(わたりのしま)の蝦夷等(えみしども)を召し聚(つど)へて、
大きに饗(あへ)たまひて帰(かえしつかわ)す。


とあります。

齶田とは現在の秋田市付近、
渟代は能代市付近と思われます。

つまり、朝廷から特命を受けた阿倍比羅夫が
船団を率いて秋田付近の海に現れた時、
秋田に住んでいた人たちの族長である恩荷が恭順を願い出てきたのです。
恩荷が言うには
「私達が弓矢を持っているのは官軍に反抗するためではなく、
生活習慣で肉を食べるための狩をするためなのです。
そのことは齶田浦の神に誓って間違いはない」

と説明しました。
阿倍比羅夫はこの説明を受け、
恩荷たちが官軍に反抗する気がないことを知り、
恩荷に小乙上という位を授けると共に、
渟代・津軽、二郡の長としてこの地を治めるように命じ、
男鹿半島に住む種族まで呼び寄せて、
大宴会を催したのです。


齶田は「あぎた」と言う発音に聞こえこの字を当てたのでしょう。
もしかしたら、男鹿半島の形が「あご」のように見えたのでしょうか?
恩荷(おんが・おが)も
男鹿半島を本拠地にしていた豪族だったのかもしれません。

このように「あきた」は私達の祖先にとっては恭順、
朝廷にとっては征服という形で日本史に初登場したのです。






んだば







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この記事へのコメント

2007年03月11日 18:39
齶田、渟代、恩荷。
都の人たちの当て字がおもしろい。
アイヌ地名も和人の当て字が多いですからね。
真偽はともかくとして、
阿倍比羅夫は寛大だったのですね。
2007年03月11日 18:53
 こんばんは☆こねこです♪

 あぎた→あきた・・・ですか。

 地域や名前などはその土地の特性を生かしたものが多い中、秋田は秋に田んぼおコメが多く実るからだと思ってました。

 しかし、歴史を振り返るといろいろな事情や先住民が残した名前などがそのまま、あるいは形を変えて今の世に残されてるんですね。

 ねこでした。ニャン☆
★なまはげ
2007年03月11日 19:54
☆むうさんへ
 遠い昔は秋田地方にもアイヌ民族が住んでいたのかもしれませんね。都の軍隊が北へ北へと領土を広げて行ったということは、先住民が追われていった歴史でもありますから。秋田で大きな戦にならなかったのは事実のようです。阿倍比羅夫もここで戦力を失いたくなかったのではないでしょうか。お互いの利害が一致し和解して共存に至ったのだと思います。
★なまはげ
2007年03月11日 20:00
☆こねこちゃんへ
 実りの秋に田んぼいっぱいにコメができると良いですね。今この字が当てられているのは、そんな願いも含まれているのかもしれません。江戸時代は秋田は「久保田」と呼ばれていました。廃藩置県で昔「あぎた」と呼ばれていたことで「あきた」になったのです。
2007年03月11日 21:10
手元の現代語訳日本書紀と付き合わせながら,楽しく読ませてもらいました。やはり,土地のようすと合わせるほうが実感があっていいですね。この部分が身近な話になりました。
そのとき,アメリカの西部劇のようなことにならなくて良かったですね。
+あい
2007年03月11日 21:20
あぎた→あきた と変遷したとは思いもしませんでした。

地名や 人名には 奥深い意味が隠されているものです。

珍名さんや とても読めないような地名には 必ずいわれがありますからね~!!
★なまはげ
2007年03月11日 21:35
☆閑客さんへ
 恩荷という長の判断が良かったのでしょうか。大きな戦にならずに良かったです。朝廷軍もホッと胸をなでおろしたんじゃないでしょうか。以降、秋田には朝廷軍が攻め入ってくることはなかったようです。
 現代語訳日本書紀をお持ちなんですね。内容に間違いがなかったですか?ちょっと気になりました(大汗!)。
★なまはげ
2007年03月11日 21:40
☆+あいさんへ
 昔、この話を知ったときは自分でもかなり驚いたものです。いつかこのお話をブログで書きたかったのですが、詳細を調べるのに時間がかかっていました。↑のねこちゃんのいわれにも一理あるんですよ。
2007年03月11日 22:15
まさかそんな昔に、あごの形かどうかなんて、
わかるわけ無いでしょ!
★なまはげ
2007年03月11日 22:57
☆猫姫さんへ
 それが、秋田方面からも能代方面から見ても男鹿半島は「あご」のように突き出しているように見えますよ。
コマチ
2007年03月12日 09:05
日本における東北の歴史は
征服から始まったのですよね…
東北に限らないこととは思いますが
中央は、土着の文化豊かな民族を
自らの正当性を強調したいがために
鬼だ土蜘蛛だと呼ばわり伝承を残したのでしょう。
だから、地方の妖怪はどこかユーモラスで優しく、悲しい。
なんちて。

★なまはげ
2007年03月12日 13:12
☆コマチさんへ
 私の先祖が侵略された方なのか、はたまたしたほうなのかは判りませんが、侵略のための戦とはそのようなものかもしれませんね。
 東北の鬼に「なまはげ」は含まれているのかな?

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