テーマ:歴史

刃傷松の廊下

「時は元禄15年12月14日・・・・・・」 今日は赤穂浪士の討ち入りの日。 事件は歌舞伎や人形浄瑠璃、時代劇「忠臣蔵」であまりにも有名です。 おそらく、日本人でこの事件を知らない人はまずいないと言って過言ではないでしょう。 しかし、「赤穂事件」の全貌を記した同時代の資料は驚くほど少なく、 徳川幕府の公式資料「徳川実記」…
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農聖と呼ばれた男

今日から11月。 月めくりのカレンダーもあと2枚を残すのみとなりました。 ご存知の通り、秋田県は農業県として知られています。 かつて昭和30年頃には県全体の生産量の40%以上を 農業が占めていましたが、 現在はおよそ3%程度を占めるだけとなってしまっているのが現状です。 このように産業構造が大きく様変わり…
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ある少年兵の死

二葉より手くれ水くれ待つ花は          君が為にぞ咲けやこのとき 近代国家の幕開けとなる戊辰戦争は、 徳川幕府に従おうという奥羽越列藩同盟から、 秋田藩が脱退、 唯一官軍となりましたが、 周辺の諸藩からの猛攻撃を受け、 落城寸前まで追い込まれたのです。 寸でのところで海路から官軍の援軍が参戦、 秋田…
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平安の謎

国の文献などには全く載っておらず、 その名称すら定かなものは発見されてはいないのだけれど、 1902年、偶然に田んぼの中から見つかった柵木から、 東北地方最大級の平安時代の城柵の存在が明らかになりました。 旧仙北町と千畑町にまたがるこの広大な城柵は、 仮の名前として「払田の柵」(ほったのさく)と呼ばれるようになりました…
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院内銀山栄華の跡 今は

秋の宮温泉郷をあとにした我々は、 小野小町の生まれ在所、雄勝の郷の遺跡、 院内(いんない)銀山異人館へと向かいました。 実はこの建物は、院内銀山資料館として使われているだけではなく、 JR奥羽本線院内駅の駅舎としても利用されているんです。 JRを利用して院内を訪れると、 一番先に、院内銀山の歴史を知っ…
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反骨の男

奥州藤原家が途絶えた後、 源頼朝の奥州支配体制が確立するまで およそ一年近くかかってしまいます。 その間、奥州武士は鎌倉幕府の侵攻を 黙って指をくわえて見ていたわけではありませんでした。 源頼朝の奥州支配の動きは早く、 各地に手の内の武将たちを地頭として配置します。 奥州各地に残った武将たちも、 鎌倉側に付く者と…
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鎌倉幕府に一目置かれた男

はじめに、今日話題にする本荘由利地方が ここ数日の局部的集中豪雨により避難勧告や警戒警報が出されています。 これ以上の被害が出ないように願うのと同時に、 住民の安全と無事を祈っていたいと思います。 「吾妻鏡」と言う書物は、鎌倉幕府が創られていく過程を 事実を元に書かれている書物です。 もちろんそれは、鎌倉…
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奥州藤原氏終焉の地

東北地方が日本史の中で中央に飲み込まれていったのは、 平泉の藤原家が途絶えた事に重なります。 大和の時代からそれまで、 東北以北は蝦夷(えみし)の国として怖れられ、 中央からの侵略は殆ど成功しませんでした。 また、東北からの中央への進出もありませんでした。 出羽・陸奥の奥州はまさに一つの独立国の様でもありました。 平安末期…
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小さな小さな教会

北鹿ハリストス正教会曲田福音聖堂 大館市の中心から鹿角市に向かっておよそ6キロ。 大滝温泉の程近く、曲田(まがた)集落の中に、 小さな小さな教会があります。 住宅地の中にあって、 うっかりすると見逃してしまいそうになるほど小さく、 外観だけ見ると「これが教会?」と疑ってしまうほど。 この地区の最初の信者…
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古代の水洗トイレ

蝦夷(えみし)征伐のために作られてきた城柵。 最北限に作られたのが現在の秋田市にある出羽の柵です。 最北限と言うことは、 ここが蝦夷征伐の最前線となった場所と言うことですね。 奈良・平安時代には名前を「秋田城」と変えています。 秋田城には国府が置かれ、出羽北部の統治を行っていた記録もあります。 秋田市の土崎港…
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七夕絵どうろうまつり

昨年も紹介させていただいた「七夕絵とうろうまつり」←クリック 由来とか歴史とかは以前の記事を参照してください。 今年も8月5日から明日7日まで、 湯沢市を会場に開催されています。 今回は昔の写真が手に入ったものですから、 それらを紹介します。 以下の写真の年代はハッキリしませんが 街…
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千古の歴史を刻む道 その4(最終回)

地図に無い、 古代の道を歩いてきました。 しかし、最終目的地だけは現在その姿を見ることが出来ません。 胆沢町下嵐江(オロセ)は、石淵ダム建設で消えてしまいました。 藩政時代は仙北街道の要衝として栄え、 番所や荷問屋、馬宿などがあったとされています。 一時、奥の谷で金が採れ、千軒を数える人夫小屋と 遊郭まで出来て、そ…
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千古の歴史を刻む道 その3

古道の真ん中に森の主のように聳える巨木があります。 推定400年ほどの巨木です。 濃いガスに包まれた巨木は、 この古道を歩いた人々の悲哀を全て知っているかのような 威圧感をもって迫ってきます。 仙北街道を行き交う人々の神木であったに違いありません。 仙北街道のほぼ中間点、 平らになったところに「中山小屋…
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千古の歴史を刻む道 その2

「古代から人々は、 奥羽の山を越えた遥か彼方の地に強い憧れをもっていた。 秋田領の人も仙台領の人も、いつか一度はこの山を越えたいという 強い願望をもっていたのである」 秋田県東成瀬村の手倉から峰伝いに柏峠(標高1018m)を経て、 小出川(おいでがわ)を渡渉し、栃川、ツナギ沢沿いの山道を歩き、 大胡桃山(おお…
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千古の歴史を刻む道 その1

皆さんご存知のように、 東北地方は背骨のように真ん中を奥羽山脈が南北に走っています。 福島から青森まで山脈は続き、 陸路から山形と秋田に行くためには 深く険しい山なみを越えなければたどり着くことは出来ません。 今でこそ山脈越えの国道はたくさん通り、 高速道路ではあっという間の山脈越えになります。 しかし国道がまだ未…
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花岡事件を知っていますか?

6月30日に、大館市で「花岡事件」の慰霊祭が執り行われました。 このブログを始めた頃から、 一度は紹介したいと思っていたものに、 「花岡事件」と言うものがあります。 年配の方なら一度は耳されたこともあろうかと思いますが・・・・・・・ 秋田県は、県北部一帯が大鉱山地域です。 現在も操業している小坂鉱山はじめ…
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後三年の役最後の戦場

秋田県南部の仙北平野から横手盆地にかけて、 平坦な土地にところどころに標高100m未満の小山が点在しています。 この小山に登ると、 平坦な土地がはるかかなたまで見渡せ、 戦略的にも、守り易く攻め難いものであったろうと 素人の私にも判断つきます。 今日の目的地はこの小山。 標高僅か91mの山です。 …
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平安の風わたる公園

日本史の中で、 今の東北地方を戦場としたいくつかの騒乱がありました。 その中でも、平安時代にあった前九年・後三年の大きな二つの戦いは 一族の骨肉の争いにまで発展し、 大いに中央政権を怖れさせた戦いでもありました。 この二つの戦いと平泉の藤原氏の繁栄のもとについては、 お話が長くなります。 が、是非皆さんにも知ってい…
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県民防災の日

明日、5月26日は日本海中部地震が発生してから24年目になります。 地震直後に襲った津波に流され、 100名以上の尊い命が奪われました。 いつまでもあのときのことを忘れないようにと、 翌年から、この日を「県民防災の日」と位置づけ 防災意識の維持に努めてきました。 その後にも日本各地や全世界…
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佐竹資料館

秋田市の千秋公園内にある「佐竹資料館」 秋田の殿様、佐竹公の貴重な資料が多数展示されています。 1990年度にオープンした「佐竹資料館」は、 1958年に築造された旧「秋田市美術館」を活用したもの。 老朽化に加え、収蔵品の増加で、 展示・収蔵スペースが狭まってきています。 このために秋田市は05年末に、 …
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日本史初登場

私が住んでいる秋田。 「あきた」が歴史の表舞台にはじめて登場し、 記載されたのは、 現存する歴史書では養老四年(720)に成立した 日本最古の勅撰歴史書といわれる『日本書紀』の 斎明天皇四年(658)四月の条といわれています。 そこには 夏四月(なつうづき)に、阿陪臣(あへのおみ)、名をもらせり。 船師一…
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尾去沢

尾去沢鉱山で有名だった鹿角市尾去沢 尾去沢鉱山の発見は、奈良時代の和銅元年(708年)と伝えられています。 もう1300年も前のお話ですね。 産金は奈良東大寺の大仏鋳造に使われていますし、 平安末期の平泉の黄金文化に大いに貢献し、 金色堂も尾去沢の金が使われました。 鉱山発見にまつわる民話なども数多く残っていて、…
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八郎潟残存湖の恵み

八郎潟干拓の完成後の、国の農業方針の転換の問題は 様々なトラブルを招きながら、今日に至っています。 その問題はいつの日か改めて取り上げることがあるかもしれません。 昨日今日と八郎潟を取り上げたのは、 干拓地(大潟村)そのものの方ではなく、 現在残存湖として残っている湖の方にも 様々な変化が起こってきたと言うことを紹介した…
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八郎潟干拓

かつて、琵琶湖に次ぐ広さを誇った八郎潟。 大昔は男鹿は島だったのが、地殻変動で陸続きとなり、 海水と淡水が混じる半かん湖として取り残された格好になったのが この八郎潟でした。 古くからうたせ船による漁業、冬の間は氷下(こおりした)漁業 といった風景が八郎潟の風物詩となっていて、 70種以上の魚介類が住む豊富な漁場だっ…
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菅江真澄と秋田

江戸時代の紀行家、菅江真澄(1754~1829年)。 秋田の歴史を語る上で最も功績を残した人物です。 彼は三河の国渥美郡(現 愛知県豊橋市)に生まれ、 本名を白井英二といいました。 30歳で故郷を旅立ち、 信州・越後を旅し、庄内を経て秋田領雄勝(現 湯沢市周辺)に入りました。 その後、横手・角館・阿仁銀山を廻り、…
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官公庁街の成立

秋田市内の古い写真を見ていたら、 貴重な写真を見つけ、 それを頼りに、思い出もひっくり返しながら 今の官公庁街の成立のいきさつなどを調べてみました。 その最初の写真がこれ、 これは昭和32年8月12日に起きた、 秋田県庁の火災の写真です。 左手奥のうっそうとした木々は千秋公園。 手前の道路…
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昔の秋田市

秋田市の昔の写真をご紹介します。 この写真は年代はハッキリしませんが、 路面電車が走っていますから、 昭和40年以前かと思います。 真っ直ぐ伸びた道路の向こう側に 秋田駅があります。 秋田駅から続くこの通りは、 秋田で一番の商店街でした。 昭和45年の秋田駅前のバスターミナ…
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秋田蘭画

以前、かの有名な平賀源内が秋田の鉱山を訪れたことがあると 記事の中で触れたことがあります。 西木の紙風船上げ (2月11日記事)の中で数行だけですが 西木村の紙風船を考案して行ったと解説しました。 その平賀源内先生は、蘭学者であったことでも有名です。 その平賀源内に惚れ込み、 江戸に帰った源内の後…
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終戦前夜の悲劇

熱い夏の盛り、毎年8月15日前後に テレビに登場するお決まりのシーンがある。 原爆投下のシーン(きのこ雲が明瞭な長崎の映像が多い)に続き、 「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ…」という「玉音放送」をバックに 焼け野原の東京の映像が流れる。 原爆投下のあと、すぐ終戦になったという イメージを持つ人も少なくないで…
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戊辰戦争と秋田 その2

東北の中で唯一新政府側にまわった秋田藩は 孤立無援の戦いを強いられました。 一番最初は、庄内藩からの攻撃でした。 海岸沿いのルートのほかに、 鳥海山越えのルートからも攻められ、 秋田軍は矢島・本荘・亀田の各城が落され、 長浜(現秋田市下浜)まで撤退をしました。 また、南東からは仙台藩に攻められ、 湯沢…
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