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はじめに、今日話題にする本荘由利地方が ここ数日の局部的集中豪雨により避難勧告や警戒警報が出されています。 これ以上の被害が出ないように願うのと同時に、 住民の安全と無事を祈っていたいと思います。 「吾妻鏡」と言う書物は、鎌倉幕府が創られていく過程を 事実を元に書かれている書物です。 もちろんそれは、鎌倉幕府側から見た価値観で書かれてはいますが、 その中に書かれている事項は間違いなく事実であったのでしょう。 秋田県南部の日本海岸、鳥海山の麓一帯を由利地方と言います。 今は由利本荘市とにかほ市に分かれていますが、 平安時代からこのあたりを治めてきた地頭に 由利八郎維平(ゆりはちろうこれひら)と言う武将が居りました。 平泉の藤原文化の最中から長くこの地を治めていたのです。 当然、いきなり鎌倉幕府が奥州に攻め入ってきたときも、 奥州軍の一員として参戦しました。 泰衡が首を取られた後も抵抗を見せていたのですが、 ある小競合いの中、捕虜となってしまいました。 捕虜になった由利八郎維平を捕獲したのは 誰なのかがハッキリしなかったので、 頼朝は梶原景時に由利から聞きだすようにと命じます。 梶原景時は奥州に住む人間を『蛮族・俘囚』として見下していた武将で、 由利に対しても居丈高な態度で接しました。 言わぬなら拷問も辞さぬとの態度でしたが、 由利は「無礼」としてガンと口を利きませんでした。 困った頼朝は梶原景時の任を解き、畠山重忠に変えました。 畠山重忠は梶原景時とはガラリと態度を変え、 対等な立場として聞き出します。 畠山重忠にはすらすらと質問に答え、その責を果たさせます。 その真の武士たる態度に関心を持った頼朝は 由利八郎維平に会う事にしました。 そして頼朝が「奥州の主君であった泰衡は不甲斐ない人物」と言った時、 由利八郎維平は頼朝の父義朝の話を持ち出し、 「出羽陸奥の二軍しか持たない奥州軍が 28万もの大軍相手に20日以上も抵抗したのは素晴らしいこと」 と反論したのです。 その反論に頼朝は黙ってしまったそうです。 さらに、義経を事あるごとに悪者扱いしてきた梶原景時にも 批判を言い、梶原景時に万座で赤恥をかかせます。 捕虜となっても堂々とした態度は「憤怒阿修羅の如し」 と吾妻鏡に記されています。 後に頼朝は「由利八郎維平には温情を施すべし」と命令を出します。 一度は頼朝について鎌倉に同行しますが、 元の領地、由利一帯を安堵され 晴れて長年暮らしてきた領地に鎌倉の地頭として復帰することが出来ました。 さて、秋田の武将の中には最後まで鎌倉幕府に抵抗を続け、 一時は平泉を取り返した剛の者がいます。 その抵抗は僅か3ヶ月ほどで露と消えてしまうのですが、 現在の地名で言えば、 秋田・青森・岩手を制し宮城まで幕府軍を追い込んだ物語は・・・・・ また明日のお楽しみと言うことで。。 んだば |
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こんばんは☆こねこです♪ |
こねこ URL 2007/08/22 19:28 |
歴史ものは 名前を覚えるのが苦手で大変なのですが 何とか付いていってますよ〜(汗) |
+あい URL 2007/08/22 20:34 |
由利八郎維平のような,骨っぽい人の話は好きです。武士が台頭した初期のことなのに,もう武士といえる武士が生まれていたんですね。 |
閑 客 2007/08/22 20:39 |
平安時代とか鎌倉時代とかの話題にとっと惹かれています。 |
Tatehiko 2007/08/22 21:10 |
源義経がいじめぬかれていた梶原景時に秋田の武士が恥をかかせたとは痛快ですね。捕われの身なれど憶することない由利の態度に感動します。 |
微笑み 2007/08/22 21:32 |
なかなか面白い逸話ですね。 |
むうさん URL 2007/08/22 21:40 |
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