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zoom RSS 千古の歴史を刻む道 その2

<<   作成日時 : 2007/07/13 07:44   >>

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「古代から人々は、
奥羽の山を越えた遥か彼方の地に強い憧れをもっていた。
秋田領の人も仙台領の人も、いつか一度はこの山を越えたいという
強い願望をもっていたのである」



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秋田県東成瀬村の手倉から峰伝いに柏峠(標高1018m)を経て、
小出川(おいでがわ)を渡渉し、栃川、ツナギ沢沿いの山道を歩き、
大胡桃山(おおぐるみやま、標高934m)を経て、
峰伝いに下り、岩手県胆沢町下嵐江(オロセ)に至る24Kmの道です。

一気に最高点の柏峠に登って、幾重にも連なる山の稜線をわたり、
東側の下嵐江(オロセ)に抜ける険しい道でした。


牛馬を使うことが困難で、
荷を背負って運ぶ「背負子(しょいこ)」という職業の人が多数居たそうです。

仙台領からは太平洋や北上川の魚類や日用品など、
秋田領からは米や酒、漆器、菅笠などがこの道を通り売買されたといいます。

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手倉や下嵐江には番所が設けられ、
朝に門を開き夜には閉め、旅人の出入りを取り締まったそうです。
街道の雑草取りや柴や笹を刈り取り、
道の維持修繕に人の手配などもここでしていました。




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仙北街道は罪人を藩外に追放する道としても利用されていました。
この「首もげ地蔵」の地点で追放したとあります。
あるとき、極刑の罪人が首を落とされる前に地蔵様の前で念仏を唱えていました。
関所役人が切ったのは、罪人の首ではなく地蔵様の首だったといいます。
逆に仙台領から追放されて秋田領に入った罪人もいたそうです。


江戸時代の紀行家菅江真澄の書いたものの中に、
「手倉山とていといと高き山あり、そこを手倉越へという、
国の法犯したる者、この峠を越して追いやらうことあり、
その大山をこゆれば、道の奥胆沢郡下嵐江というところに出るとなむ。」

とあります。

いといと高き山、あるいは大山とあるのは県境の柏峠のことで、
秋田側では仙北街道のことを「手倉越え」と呼んでいたことも判ります。

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街道の分岐点には道標が置かれ、
山道を迷わぬように案内してくれています。

「右 せんだい・・」の文字が読みとれます。


途中、弘法神社などが祀られています。
道中の安全を祈願したのでしょうか。




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ここからは、ブナの森の中を快適に歩くことが出来ます。
すぐに急な登り坂となり、峠には「十里峠」の石柱があります。
アップダウンの稜線に沿った古道が続きます。












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沢を渡り稜線沿いに進むと、尾根はだんだんと細くなります。
丈の倉まで来ると一気に視界が広がります。
左手に深いV字谷の岩の目沢と胆沢川沿いを走る国道397号線が確認できます。




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僅か歩くと、標高1018メートルの柏峠にたどり着きます。
ここは仙北街道の一番高いところにあたります。




ここまでで、書き込みの残りが少なくなってしまいました。

ブナの原生林、谷を流れる川の自然、数々の滝などの紹介は
次回のお楽しみということに・・・・・





んだば








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コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
今は、出来るだけ低いところに道を造るのが普通ですよね。でも、昔は、沢だと、治水の関係で、道を造れなかったの?かな?
猫姫少佐現品限り
URL
2007/07/13 17:22
すごい山道 並大抵の体力では 歩き通せないないように見えます。

私がこの時代に生きてたら 多分生まれた土地から一生出ない 出られなかったかもしれませんね。

+あい
URL
2007/07/13 18:09
 こんばんは☆こねこです♪

 すごい山道ですね。これほどとは・・・。
 でも、昔は当然電灯もなかったわけですし、一般の旅人ならともかく、それなりの役目を果たす人にとっては危険も伴った道のりだったことでしょうね・・・。

 首切り地蔵・・・怖いけどかわいそうですね。
 ねこでした。ニャン☆
こねこ
URL
2007/07/13 19:10
昔は北の地方は異国の地のような感じみたいですね。
源頼朝に追われた義経が逃げてとか松尾芭蕉とか色々歴史ある地でもありますからね。
結構、道のりが厳しい所でもあるし、自然が残っている土地でもありますね。
トシオ
URL
2007/07/13 19:37
☆猫姫さんへ
 明日の記事の写真を見てもらえれば、沢がいかに危険だったかお分かりいただけると思います。足元が滑りやすく両岸が切り立ちすぎて歩けるスペースが確保できません。野生の動物なども水を求めて沢に集まってきます。途中で雨などに降られても、尾根であれば上から降る水の心配だけで済みます。
★なまはげ
2007/07/13 21:02
☆+あいさんへ
 昔は雪の降り積もる冬も人の出入りが絶えることが無かったそうです。およそ6時間から8時間の距離だそうですが、昔の人たちの体力は凄いものがあったんですね。
★なまはげ
2007/07/13 21:05
☆こねこちゃんへ
 平安時代の前九年・後三年の役や明治初期の戊辰戦争など、幾多の戦争の軍隊もこの道を通っています。数千・数万の兵士達が武具武器を身に付けて馬を使ってこの道を通ったんですね。
相当難儀な山越えになったと思います。
★なまはげ
2007/07/13 21:11
☆トシオさんへ
 昔は都人から東北は蝦夷(えみし)と呼ばれ、鬼のような人間が住むところだと思われていたようです。しかし、同じ東北でも太平洋側の陸奥は比較的通行は楽でしたから、平泉に義経も来ることができたのでしょうね。松尾芭蕉は奥羽山脈越えは避けて、太平洋側から青森付近まで真っ直ぐに北上し、奥羽山脈を避けながら出羽の国に入ってきています。
★なまはげ
2007/07/13 21:19
主要な街道だったとは思えないですよね。
確かに「追放」という言葉が似つかわしい。
奥州から出羽という距離感を感じさせますね。
むうさん
URL
2007/07/17 21:44
☆むうさんへ
 今の時代の道とは全く違っていますね。もちろん人の往来が多くあったときには、道幅も広く草木なども適度の管理があったのでしょうが。
★なまはげ
2007/07/17 22:06

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