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zoom RSS 後三年の役最後の戦場

<<   作成日時 : 2007/06/29 17:01   >>

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秋田県南部の仙北平野から横手盆地にかけて、
平坦な土地にところどころに標高100m未満の小山が点在しています。

この小山に登ると、
平坦な土地がはるかかなたまで見渡せ、
戦略的にも、守り易く攻め難いものであったろうと
素人の私にも判断つきます。


画像


今日の目的地はこの小山。
標高僅か91mの山です。

後三年の役の最終の戦場となった「金沢柵(かねざわのさく)」、
現在は桜やツツジで有名な「金沢公園」として活用されています。

画像
異父兄弟の清原清衡(後の藤原清衡)と清原家衡は、
骨肉の争いの末、ここ金沢柵で対峙し合うことになりました。
この金沢柵は四面断崖絶壁の天然の要害であります。
しかも、全山に多くの段丘を作り、峰ごとに塹壕が掘られ、
たくさんの蔦系の植物も植えられ、
武具を着用したまま入り込むと動けなくなってしまいます。
本丸には孔雀城、二の丸、北の丸、西の丸等もあり、
当時の柵としてはかなり大きな砦となっていました。

この柵を攻めあぐねた、源八幡太郎義家、清衡軍は、
日本で初めてという「兵糧攻め」と言う作戦にうって出ました。


兵糧攻めは見事に当たり、
程なく清原家衡軍は城を放棄、
城外に死を覚悟の決戦を挑み、全滅してしまいます。
家衡と武衡(叔父)も、
一旦は逃げ出しますがすぐに見つかり首を落とされます。

画像
勝った源八幡太郎義家は二の丸に上がり、
そこにあった小さな祠に、戦勝の祈りを捧げました。








画像
そのとき、被っていた兜を祠の横に埋め、
その上に岩を乗せ、すぐ脇に杉の木を植えました。

兜八幡神社
兜岩と兜杉です。





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その6年後、義家は藤原清衡に命じ、
二の丸跡に金沢八幡宮を建てさせました。



さて、「コマチさん」からの宿題は、
ここ金沢八幡宮で毎年9月14日に行われている、
「奉納掛け唄行事」のルーツ探しでした。

掛け唄とは、
「二人または二組の集団が、互いに相手に即興的な唄をもって問いかけたり、
答えたりするもの」です。
古代において、男女がお互いの気持ちを込めて掛け合ったりしていたそうです。
全国各地にも
「季節の良いときに男女が神聖な山などに集まり、
楽しく飲食をしたり舞踏をしたり掛け合いの唄に興じた」
との記録が残っています。


ここ金沢八幡宮では、
祭礼前夜、「おこもり」と言われ、未婚の女性が深夜2時〜3時頃にお参りすると、
良縁に恵まれるといわれていて、
その娘の父母や兄弟親戚の者が、
神社の入り口付近まで付き添いをしていたそうです。
娘が神社に参拝している間、
境内では村ごとに円陣を組み酒を酌み交わし、唄を歌いました。
やがて唄の掛け合いは村同士の競い合いになり、
「奉納掛け唄」に発展したのです。



現在、継承されている「奉納掛け唄行事」ですが、
昔は男女間の恋の唄の掛け合いが主流だったそうですが、
今のご時勢は、政治問題だったりレジャー・スポーツに関するものだったり、
その年の稲作の話題だったりするそうです。
昔は唄に特別な節がついてはいなかったそうですが、
現在は、七七七五調の軽快な「仙北荷方節」にのせて、
名調子の即席・即興の掛け合いになっています。

この掛け唄奉納は夜中の9時頃から行われ、
次の日の夜明け前まで続けられます。



この「奉納掛け唄」にちょっと興味が湧いてきました。
いつか実際の「奉納掛け唄」を見てみたいものです。



「コマチさん」、こんなものでよかったでしょうか?







んだば







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コメント(13件)

内 容 ニックネーム/日時
興味深く読ませていただきました。
東北地方にも古戦場はあったのですね。
100%無いとは思っていませんでしたが・・・関東地方や近畿地方のように戦国時代から度々戦火にまみれることの無い穏やかな地方だと思っていました。
Tatehiko
URL
2007/06/29 17:54
 こんばんは☆こねこです♪
 
 昔は今みたいにPCやケータイがあるわけじゃないので、情報戦も大変だったでしょうね。

 そんななか、自然の形態を利用することも戦術の一つだったんでしょうね。

 兵糧攻めは、たしか食料の補給を絶つんですよね?あれはかわいそうです・・・。

 ねこでした。ニャン☆
こねこ
URL
2007/06/29 19:20
八幡太郎が居る話で,満足。兵糧攻めは,このときが最初だったのですか。知らなかったから,面白く読みました。
記録があれば「奉納掛け唄」の一節でも紹介していただけるといいのですが…。でも唄いっ放しかも。
閑 客
2007/06/29 19:58
情報伝達手段が限られていた時代に どうやって工夫してたのかが不思議だし その知恵には驚かされます。

創意工夫 今 一番欠けてる事じゃないかな?
+あい
URL
2007/06/29 20:04
ふたたび。
四回に及ぶ戦記物語,拝読しました。先に読んでおけばよかったのに,横着しまして…。
詳しくてよく分かりました。
先の知らなかった兵糧攻めの部分も埋まりましたよ。
閑 客
2007/06/29 21:05
☆Tatehikoさんへ
 戦国時代は、東北は都から遠く離れていたために大きな戦にはならなかったようです。ただそれ以前の平安時代には、鉱業林業農業の利権を巡ってたくさんの命が奪われてきました。中央政府と東北各地の豪族間の争いの中、最後に残ったのが清原(藤原)清衡でした。もしよろしければ、昨日ご紹介した過去記事をお読みになっていただければそのあたりの事情がわかっていただけるものと思います。
★なまはげ
2007/06/29 23:25
☆こねこちゃんへ
 自然の中での戦ですから、自然を活かした戦法が取られていたのでしょう。今はボタン一つで戦争が出来ますが、昔は伝令するだけでも大変なことであったと思います。
 兵糧攻めは、非常に惨い作戦ですね。が、こちらの戦力を失わず相手を苦しめるには、もってこいの作戦でもあったわけです。
★なまはげ
2007/06/29 23:30
☆閑客さんへ
 閑客さんの大好きな源八幡太郎義家が大活躍した時代でした。過去記事の全編を読んでいただけたのですね、ありがとうございました。一年以上も前の記事ですが、自分の大好きな歴史のお話で、今まで一番力が入った記事でもありました。
 掛け唄の歌詞については、たくさんの資料の中から二つだけ記録が残っていました。後日機会を見てご紹介します。
★なまはげ
2007/06/29 23:36
☆+あいさんへ
 情報がない分、頭を使ったのだろうし、肉体労働もいとわなかったのではないでしょうか。
今の世の中、全て楽にはなったのだけれど、そのぶん頭と肉体を使うのがおろそかになっているような気もします。
★なまはげ
2007/06/29 23:40
奉納掛け唄。さすがに思いを寄せ合っている男女同士でないと、掛け合いは成立しません。
奥ゆかしい古代のルール。
いまの世でも生きた形で残るといいですね。
むうさん
URL
2007/06/30 21:32
☆むうさんへ
 本来の掛け唄は、自分の恋心を即興の歌にするというものですから、もし私がその男のほうだったら女性から総スカン食らっちゃうでしょうね。
現在の唄は、政治関係などが唄われているようです。今年なら話題に事欠かないでしょうね。
★なまはげ
2007/06/30 22:19
わーい、ありがとうございました。
勉強になりました。
そういえば、あの崖のあたり、つるつるした韮っぽい草がたくさん生えていましたよ。
あれは、わざと植えられていたんですよね。

しかしまあ、良縁を願う「おこもり」の最中に
親類縁者が恋の歌って…
まあ、秋田音頭なんかも相当色っぽいものだそうですし
万葉集とかもそうですもんね。
昔の人は、おおらかだったのですね
そんな歌でも歌って楽しんでないとやってられない、といったところかもしれませんが。
コマチ
2007/07/02 11:14
☆コマチさんへ
 昔は性に関して開けっぴろげだったんでしょうね。今の人間のほうが奥ゆかしかったりして・・・・!!
★なまはげ
2007/07/02 18:37

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